私の日々アップデート言霊空間日記vol.3 2022 9/30
人の煩悩と救いについて考える
わたくしの参考にした動画
#悩み #人生 #心理学
「『救い』は他者か自分の中か」(2min)
【衝撃】仏教の人間観。すべての人は煩悩100%
煩悩とは、私達を煩わせ悩ませるもの。
全部で108あります。
中でも代表的なものが、貪欲、欲の心、瞋恚、怒りの心、愚痴、うらみやねたみの心で、これを三毒の煩悩と言います。
わたくしのオリジナル見解
救いそのものは、表裏一体ではあるが、己自身が、他者と自分を激しく区別すればするほど、己も他者も救いは離れてゆく。
しかしながら、人は、その時々の場面において、これが良い、これが悪いと常に刹那で取捨選択しているから、歩む(歩く)ことができるわけである。
それを包括的に抱き込まずに、一点集中で執着すればするほど、心に遊びというかゆとりがないため、常に心がジェットコースターである。
車の運転なら、常に急ハンドルを切って、急ブレーキ、急発進を維持するようなもので、心身にすぐにガタがきて、周辺の穏やかなものに対しても波風を立てて、みんな興奮状態の危機的状況空間に呑まれる。それが過剰になると、お釈迦さまが登場して、生と死の悟りについて問いただすお呼びがかかる。
煩悩100%というものは、厳密には99.9999999・・・・%という表現の仕方で示します。感覚的にはほぼ100%ですが、真理においては、この世に絶対的な100%があるないということ自体がないと思っているし、絶対的な100%という意識そのものは、実質的には何かを決め込んだ認識になるので煩悩そのものだと思っています。
この世にいる創造は、わずかながらでも必ず【隙間】があると思っているし、隙間がなければ密封状態で【運動】が存在しないため、【運動】がないという事は、そもそも【何かと何かが結びつく事がない】ため、原子から分子、分子から細胞、細胞から生命がそもそも存在しないと思っています。もっと広大なダイナミックに俯瞰するならば、地球も星も宇宙も海も大地も大気も、【無の運動からなる無限という動詞】ではなく、【運動がない無の密封状態】なので、何も【創造が存在しない】ことになります。
常にプラスとマイナスがあると仮定したならば、その中間のよくわからない論理では説明しようとすることができない不思議な空という間がある。更にこれを掘り下げて、何故、論理で説明できないかという理由は、論理そのものが、形として示すための文字を使用するため、文字そのものの存在が、白か黒かの決めつけの示しが既に存在しているから、その中間を説明すること自体に矛盾が生まれるのである。
それを例えるならば、我々が【黒】のマジックペンで【白】と【文字】で示せば【白】と認識するのは当たり前な自然なことかもしれない。
が、しかし、そもそも【文字】という【概念】がない自然界で生きるものにとっては、【白】ではなく【黒】と認識する。
!!❤みんなで煩悩を学ぼう❤!!
最後に、私の煩悩からの煩悩を唱えた煩悩言霊
私は人間そのものに興味があり学びたい。何故ならば、私が人間と自覚しているから。
しかしながら、何かの前提そのものが、その時々の人の口から出るものは良い加減に対応する。
その【いいかげん】という文字そのものに対して、前提がネガティブから入るか、ポジティブから入るかで、人の心はコロコロ変わる。
また、【いいかげん】という音のトーンそのものに対して、前提がポジティブで頭でわかっても、感覚がネガティブになったりするのも人の心である。もちろんその逆もある。
人の心は最終的には、文字よりも音の感覚的な情報の方を優先する。
何故ならば、大自然界においては理屈よりも感覚がなければ生き残れない。
人も衆生の一員であることには変わりはない。
自然は人も動物も包括的なバランスで変化している。
「変化してはならない、または変化しなければならないという」~であるべき論を唱える正義を持つのは人間の煩悩である。