古代日本は中国に占領されたPART1~漢字文化に抹消された真実

高橋良典(著)1994年7月 【太古、日本の王は世界を治めた!―神代文字が明かす消された歴史の謎】から抜粋 

謝辞 1995年12月にイルミナティの秘密中枢が日本のマスメディア・出版界から彼を密かに追放したため絶版となりました。

神代文字を抹消した恐るべき【黒い勢力】がいた

奈良時代以前の日本に文字があったことは、文献にもはっきり書かれているし、遺物にもはっきり刻み込まれている。従って、文献と遺物の両方から、日本に古代文字があったことはすでに立証済みである。にもかかわらず、そのことがこれまで周知の事実とならなかったのは何故だろうか。古代史の権威が口をそろえて神代文字を否定したり、日本の古代文字を無視してきたのは一体何故なのか?ここには私たち日本人の全てが、未だにその真相をつかんでいない歴史上の大きなトリックがあるように思われる。これまでの権威すらも飲み込んでしまう歴史上のブラックホールのようなもの、つまり私が先に漢字の呪縛と名付けた、私たちの目に見えない巨大な意思が存在し、この恐るべき力が日本の古代文字資料を抹消して奈良時代以前の歴史を封印してきた背景があるように思われるのだ。その恐るべき正体とは何か。

私たち日本人の奈良時代以前の歴史に、誰が考えても異常としか思えない巨大な空白をもたらした力の正体とは何か。日本古来の文字で書かれた文献を奪い取った途方もない勢力とは一体なんだったのか。私には、その力の正体がどんなものであったのか、今のところ全てを正確に述べることはできないが、一つだけはっきりしていることは、その勢力が今から1370年ほど前の大化の改新645年と白村江の戦い663年の時代に、日本海周辺のほぼ全域に台頭し、それまでの日本にあった固有の文字と文化、王家と有力氏族の記憶をほとんど消し去ってしまったということである。

私たちはこれまでの教育のなかで、日本は滅亡に瀕した百済の請いを受けて唐・新羅の連合軍と白村江の戦い、手痛い敗北を喫したあとは連合軍の侵攻を恐れて都を近江に遷したとしか教わっていない。いわんやその戦いに敗れたときに、そのまま日本が唐の軍隊に占領されたことを、そして、この時代以後につくられた日本の都城や古墳の設計単位が、それまでの高麗尺(唐によって滅ぼされた高句麗の尺度)から、唐尺に全面的に改めさせられたことなどは一度も教わっていない。従って、この時期の中国東北部と朝鮮半島、日本を占領した中国の軍隊が、この地域に伝わる固有の文字資料をことごとく抹消し、漢字で書かれたもの以外は絶対に後世に伝えないようにした、などということは考えたことすらなかったはずである。

中国の日本占領GHQは大宰府に置かれていた

古代の日本が663年の白村江の戦いに敗れたあと、中国の占領支配をうけたとは【日本書紀】の天智天皇の条のなかにそれとなく記されている。すなわち、天智四(665)年の記事では、この年、日本へやってきた唐の使節団の人数が254人であったが、同八年と九月には2000人に膨れ上がっている。天智八年十二月の条である。

……大唐、郭務悰等二千餘人を遣して來らしむ。……

敗戦後の日本へ二千人という大量の使者が続々とやってきたのは異常といわなければならない。このことは、唐の使者がただの使者ではなく、占領軍司令部の要員であったことを暗示しているのだ。また、天智六(667)年に記事によれば、この年には、すでに九州の大宰府が【筑紫都督府】という呼び名に変わっているが、この都督府という表現は、唐の軍隊が高麗と百済の都をそれぞれ占領したときに【平譲都督府】【熊津都督府】と称した例をみてもわかるように、隣、中国による日本占領支配の拠点となっていたことは明らかである。いってみれば大宰府が、第二次世界大戦に皇居前の第一生命ビルに置かれたマッカーサーの占領司令部(GHQ)と同じようようになっていたのである。そして、戦後の日本が英語使用を強要されたのと同じく、いやそれ以上に、白村江の敗戦後の日本は、全面的な漢字使用を強制されたのだ。

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天智天皇はこの年の春、近江京に遷都し【漢字使用令】を出した。こうして近江京の文化が漢字文化そのものであったこと、そして、天智天皇と天武天皇に代表される勢力が672年の【壬申の乱】で激しい死闘を演じたことなどは、これまで、この時期の中国による日本占領支配とのかかわりのなかで論じられたことはなかった。この問題については、ごく少数の学者が天智天皇は百済系で天武天皇は新羅系または高句麗系であったということを述べる程度にとどまり、白村江の敗戦後、日本と朝鮮、中国東北部にまたがるかつての高句麗王国が解体したことや、その後、壬申の乱を機に高句麗の旧領に渤海・新羅・日本の三国が唐の承認を必要とするかたちで成立したことなどは論じられていない。しかし、この時期の唐帝国の周辺を見渡せばわかることだが、この頃からインドと日本を結ぶ南海ルートの影が薄くなっていく。つまり、私流にいえば、インド以東のアジアには漢字以外の文字文化が、それ以前にはなかったような印象が強くなる。

七世紀初めに隋のヨウ帝が率いる百万の大軍と戦ってこれを退け、ついに隋を滅ぼす糸口をつくった高句麗は、668年唐によって滅ぼされるまで、700年以上もの歴史を誇っていた古い国であるが、このような国にさえ固有の文字で書かれた記憶はなかったことになっている。秦・漢帝国以来の中国の王朝が、周辺諸国に自らの漢字文化を押し付け、中国の宗主権を認めない国を侵略して、その国の文字文化を破壊したことは、中国の史書に王家の記憶を没収した記事がたびたび登場することをみても確かだ。このような中国の支配者による歴史抹消の手口、すなわち漢字以外の文字で書かれた他民族の記憶を抹消し、そのことによって他民族を中華帝国に従属させていくやり方の最も顕著な例が秦の始皇帝による【焚書坑儒】だ。中国における漢字の成り立ちを調べても、漢字の中には、それ以前に大陸の各地で使われていた日本の古代文字を並び替え、それによって元の意味を消し去る手法で新たにつくられた例がいくつかあることが確認できる。だが、何故そのようなことをしたのか。おそらくそれは、神のように崇高で、そして悪魔のようにデンジャラスな超科学的宇宙が緻密に記載された古代文字そのものの意味を根本から封印しなければいけなかった。

つづく

 

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